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第31回:CHRISTINA AHMADJIAN 理事 【日】
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私は、ウィリアム・S・クラーク博士の町で知られるアマーストの近郊、マサチューセッツ州ウースターで育ちました。父の家族はアルメニア出身で、大虐殺によって難民となりアメリカに辿り着きました。母方の祖父母はより良い生活を求め、スウェーデンからアメリカへ移住しました。父方の祖父母はアルメニア語を話し、アルメニア料理を楽しみ、そしてアルメニアの祝日を祝いました。母方の祖父母はスウェーデン語を話し、スウェーデン料理を食べ、そしてスウェーデンの祝日を祝いました。私自身はアルメニア語もスウェーデン語も話せなかったため、親戚の会話を理解することはできませんでしたが、このようにして多文化環境に身を置き、その中で自然に過ごす力を身につけました。
父はクラーク大学の教授で、地衣類(菌類・藻類などの共生体)の研究に従事し、研究室で地衣類を培養する技術を開発しました。研究のため、南極大陸のような遠隔地まで出かけることもありましたが、我が家の裏庭でも地衣類や趣味の一つである花の観察を行っていました。私は父が客員研究員として滞在していたウプサラ大学病院で生まれ、ミドルネームの「リン」は偉大なスウェーデンの生物学者カール・リンネにちなんでいます。子供の頃は、父の研究室を訪れて顕微鏡を覗いたり、父が収集した地衣類や花を観察したり、父や研究室の学生たちと一緒に散歩するのが大好きでした。
大学で専攻を決める際、最初は父の跡を継いで生物学を学ぼうと考えていましたが、学生たちが医学部入試に向けた成績のことばかり気にしていることに気づき、興味が薄れました。私はもともと言語や多様な文化に関心があったため、大学では中国を中心とした東アジア研究を専攻することにしました。中国語の四声を何時間もかけて熱心に練習し、漢詩や米中外交関係の講義で学びました。3年生の1学期には台湾に留学し、アメリカと東アジアをつなぐ未来に思いを馳せました。
卒業が近づくにつれ、就職活動の進め方がわからず、不安を感じていました。すぐに大学院に進むつもりはなく、国際貿易に携わる企業で働きたいと考えていましたが、当時のアメリカ経済は不況の真っ只中で、就職の選択肢は限られていました。そんな中、学部長のエズラ・ヴォーゲル教授が著書『Japan as Number One』を発表し、日本がいずれ世界最大の経済大国となり、新卒者にとって多くのチャンスが広がると私たちに語りました。それで、私は日本に行くことを決意しました。
日本では京都郊外の狭くて寒いアパートに住んでいました。最初は英語教師として働いていましたが、偶然にも隣が三菱電機京都製作所の社宅だったことから、縁あってそこで「OL」として働くことになりました。業務は、英文通信のチェックや外国人ゲストへの工場案内に加え、お茶出しや灰皿洗い、床掃除まで多岐にわたりました。その中で多くの友人に恵まれ、さまざまなことを学びました。しかし、当時の日本では女性がキャリアを築くのが難しいと感じ、アメリカに戻ることを決意しました。
日本滞在中、アメリカとは異なるビジネス文化や商習慣を持ちながら、なぜ日本が「ナンバーワン」の経済大国になれたのかに魅了されました。また、大学という環境が自分にとって最も充実感を得られる場所だと気づき、経営学の研究と教育に携わりたいと思うようになりました。スタンフォード大学経営大学院でMBAを取得した後、カリフォルニア大学バークレー校の経営学博士課程に進学し、日本企業グループに関する博士論文を書き上げました。その後、ニューヨークのコロンビア・ビジネス・スクールで助教授に就任し、1歳の娘と家族と共にニューヨークでの生活を過ごしました。
コロンビア大学で数年間教鞭をとった後、私は安倍フェローシップを受け、コーポレート・ガバナンスを研究するために日本に引っ越しました。私は企業が株主、特に外国人投資家との関係をどのように管理しているのか、また、従業員へのコミットメントを中心とする日本の価値観と株主価値の最大化というアメリカの概念とのバランスをどのようにとっているのかに興味がありました。結局、私は一橋大学大学院国際企業戦略研究科で働くことになりました。多様な日本人学生や留学生を教えるのが楽しく、数年間は研究科長も務めました。その後、一橋大学商学研究科に移り、学生を対象としたグローバル・リーダーシップ・プログラムである渋沢スカラー・プログラムを企画、また指導しました。
数年前、私は一橋大学を定年退職しました。教壇を離れることになったのは残念ですが、現在も学術活動に積極的に取り組んでいます。研究を続けるとともに、学術誌の査読者や編集委員を務め、博士課程の学生や若手教員への指導にも力を注いでいます。さらに、学術活動に加え、アサヒグループホールディングス株式会社(アサヒビールの親会社)や日本電気株式会社(NEC)などで社外取締役としても活動しています。大学と企業という、文化や目的が異なる2つの世界を橋渡しし、それぞれが持つ知見を共有することが重要であると感じています。
2024年4月より、北海道大学の理事として加わることになり、嬉しく思います。北大を象徴するキーワードは、「国際性」と「持続可能性」だと考えています。留学生や海外からの教員を積極的に受け入れる姿勢を持ち、世界中から多くの人々を引きつける魅力的な大学です。学術レベルが高く、美しいキャンパスを併せ持ち、さらに世界でも有数の美食の地に位置している点も大きな特徴です。北海道・札幌を中心とした北大のキャンパスは、豊かな自然環境と生物多様性に恵まれ、まさに「多様性と美の楽園」といえる場所です。自然と共に持続可能な生活する方法について、私たちに多くのことを教えてくれます。また、留学生や教員、友人、連帯する方々が、持続可能な未来のためにどうやって知識を創造し共有できるのか、沢山のことを教えてくれます。
北大での仕事、学術的な研究活動、そして企業役員としての業務が重なり、多忙な毎日を送っていますが、それでも趣味の時間を大切にしています。特に、日本の着物を集めて着ることが趣味です。その美しさや繊細な職人技は、世界に類を見ないものであり、海外の友人たちともその魅力を分かち合っています。畳の上で正座をするのは少し苦手ですが、それでも日本の茶道が大のお気に入りです。さらに、京都郊外にある滋賀県にある私の築90年の古民家で過ごす時間も大切にしています。この家では、京都の文化と、さらに歴史の深い滋賀の文化をどちらも楽しむことができます。
新千歳空港に降り立つたびに、自然と笑顔になり、喜びを感じます。大学の正門をくぐると、「ただいま!」と心の中でつぶやくような気持ちになります。北海道大学の目標達成に貢献できる機会をいただき、また、北大が世界的に評価される大学でありながら、同時に北海道ならではユニークな存在であり続けるため、お手伝いができることを、心から嬉しく思っています。