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活動・沿革 ― 植物園部門 ―

植物園部門の活動

 北大植物園は東アジア最北域の研究植物園であり、北海道とその近隣地域を主な対象に、植物分類学、植物生態学の研究を行っています。現在実施している主な研究内容は以下のものです。

・冷温帯種を主とした植物の分類・記載と、標本・遺伝子資源の収集
・遺伝情報を用いた系統・進化の解明と生物地理
・希少植物の分布や生活史、繁殖様式、遺伝的多様性の調査
・北海道の植物景観を特徴づける湿原などの植物群落の構造と成立要因の解明
・劣化した植物個体群および群落の保護、保全、復元に関する管理手法の確立

 これらの研究の推進には、北海道が属する広大な北方域をフィールドとすることが必須であり、研究の国際化が不可欠です。北大植物園では、これまでロシア科学アカデミーサハリン植物園、ブリティッシュコロンビア大学植物園などと姉妹提携を結び、寒冷地の植物研究における連携を強化してきました。
 保全研究・活動においては、北大植物園は公益社団法人 日本植物園協会が定める「植物多様性保全拠点園」の一つとして、北海道や高山帯の絶滅危惧植物の栽培・増殖技術の確立、他機関への技術提供に取り組んでいます。種の保存法で特定国内希少野生動植物種に指定されたレブンアツモリソウの種子に共生菌を人工接種する増殖法を確立し、植物園内での開花に成功したことは、保全取り組みの成功例として特筆されます。
 北大植物園は、調査・研究・教育のフィールドとして活用されており、その促進を図るため、園内植物の継続的な調査や気象記録の蓄積を行い、利用者への提供を行っています。また、展示や公開講座などを通じて社会教育に取り組んでいます。

  

  

沿革

● 植物園前史 ●
 北大植物園の歴史は、1876(明治9)年に開校した札幌農学校(北海道大学の前身)初代教頭であるウィリアム・クラークが、『札幌農學校第一年報』(1877年)に植物学および園芸学の教育のためには植物園が必要であると提言したことに始まります。提言を受けた開拓使は、北海道における園芸奨励のためにルイス・ベーマーに命じて建設させていた温室と付属地3,600坪(北3条西1丁目)を翌1878年に農学校に移管しました。移管された温室と付属地は、植物学担当教員であったダビット・ペンハローによって、園芸学実習用の果樹園へと整備されました。その後、温室、付属地に農学校の敷地一部を併せて植物園を設置する計画が進み、農学校構内(現在札幌時計台がある札幌農学校旧キャンパス)に樹木園と潅木園が整備されました。


● 植物園設立準備と宮部金吾 ●
 1883年、農学校二期生の宮部金吾が助教に任命され、温室事務を担当するとともに、植物園を設立するための計画立案を命じられました。宮部は、樹木園の場所に自然分科園(分類花壇)、有用植物園、高山植物園などをもつ植物園を設計し、その準備にあたりました。
 宮部は植物園に導入する生株とさく葉標本室の核となる標本を採集するために1884年6月から8月に調査旅行を行いました。そのルートは日高地方を南下して東海岸を通り北見地方まで北上し、さらに千島列島の色丹島、択捉島、得撫島に及びました。宮部がこの採集旅行で日高静内にて採集し、ロシアの研究者カール・ヨハン・マキシモヴィッチによって新種記載されたクロビイタヤ(ムクロジ科・旧カエデ科)は、北大植物園のシンボルマークとなっています。また、植物園内南ローンのグイマツ(マツ科)は、サハリン・千島にのみ自生する樹木であることから、宮部がこの採集旅行で千島から持ち帰ったものと考えられています。
 宮部は後にハーバード大学に留学し、博士論文『千島植物誌』によって学位を得ました。帰国後、宮部は農学校教授、植物園主任(のちに園長)に任じられ、退官まで植物園の発達に尽力しました。


● 札幌農学校植物園の設立 ●
 1884年7月、宮部の採集旅行中に、植物園の設立計画に大きな変更がもたらされました。開拓使の廃止後に農商務省北海道事業管理局の管理下にあった札幌博物場とその付属地が札幌農学校に移管されることになり、この地を植物園の用地として利用することが決まったのです。現在の植物園の場所となるこの土地は、宮部の伝記によれば「天然の風景に富み、ここに温室を造り、花壇を作る等の地形にあらざるが故に、能うかぎり天然の風致を保存し、各種の樹木を造庭法に適ふ様植栽」し、分科園や温室(旧温室を移設)は周囲の土地を新たに得て設置する方針が定められました。園路の設計にあたっては、敷地内を学生に自由に歩かせ、その踏み跡を参考にしたといわれています。
 1886年、日本初の「近代的」植物園として札幌農学校植物園は開園しました。1900年、植物園が官制公認され、宮部が初代附属植物園長に就任しました。


● 開園当初の産業への貢献と一般公開 ●
 開園当初の植物園は、札幌農学校が北海道の開拓の拠点の一つとなっていたこともあり、林業や園芸業に精力的に協力していました。外国産植物が北海道に適応できるかの試験場としての役割を果たしつつ、外国産植物の苗の頒布も行っていました。また、当時は温室と博物館だけを日時を定めて公開し、植物園は市民が自由に出入りすることができました。しかし、管理上の支障が生じたため、1909年に園の周囲に垣を設け、正門脇に門衛所を設置しました。1911年からは、門衛所で入園料2銭を徴収することになりました。


● 植物園の整備・発達 ●
 植物園は、開園以降周囲の土地を入手しながら、分科園を整備してきました。開園前の1876年から国内外の植物園との種子交換が始められ、コレクションの充実に力が注がれました。とくに、樹木の生育には時間がかかるために、その入手・育成を優先して着手したことで、現在、外国産の巨木を観察することができます。
 1932年、東京府立園芸学校で教鞭をとった盧貞吉氏から新たな温室が寄贈され、幾度かの改修を経ながら利用されていましたが、老朽化や暖房燃料の変化から1981年に三代目の温室が新築されました。
 1938年、高山植物を育成するロックガーデン(約5,000㎡)が設置されました。設計・造成にあたっては、北海道の大雪山系トムラウシ岳八合目付近の風景を模したと伝えられています。土砂数百立坪を積んで、小樽張碓産の古い火成岩大小3,000個を搬入して岩組を行い、滝や渓流、砂礫地などを配置して、高山植物各種の自生地における生育の様子が再現されました。また、当時としては珍しいスプリンクラーも導入され、北日本随一のロックガーデンとして知られるようになりました。
 太平洋戦争中、園内のローンが畑に転用され、植物園の景観にも変化が生じましたが、戦後すぐに潅木園やバラ園、エンレイソウ園などが設けられ、研究フィールドとして再び整備されました。また、開園当初から園内には湧水があり、豊かな水を湛えた川が流れていましたが、地下水位の低下により湧水がなくなり、ポンプアップによって水を流すことが必要になりました。


● 植物園と博物館の統合 ●
 2001年、北方生物圏フィールド科学センター発足とともに、農学部附属植物園と農学部博物館が統合されて「北方生物圏フィールド科学センター植物園」となりました。同年、ブリティッシュコロンビア大学の植物園との姉妹提携を記念して、園内にカナディアンロックガーデンが整備されました。また、2011年には研究資源の保存管理・活用の推進を目的とした新収蔵庫が設置されました。
 新しい植物園は、開園以来の活動を継続しつつ、自然環境の変化に対応し、絶滅危惧植物の保護・増殖や遺伝子資源の収集・管理など、生物多様性を保全し、社会の要請に応えるよう新たな取り組みを行っています。