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活動・沿革 ― 博物館部門 ―

博物館部門の活動

 博物館部門では、博物館と所蔵標本・資料の歴史を再検討し、研究資源としての標本の価値を高めることを目的とした研究を現在行っています。
 130年以上の博物館の歴史の中で収集されてきた標本・資料の中には、その収集情報や資料が持っていた情報が失われたり、誤って付属している場合があります。研究に必要とされる情報が付属していない資料は利用されることはありませんし、誤った情報は研究活動の健全な発達を阻害します。所蔵標本を信頼できる研究資源とするために、それぞれの資料がどのような過程を経て収集され、現在に至っているのかを歴史的に検討し、資料を適切に研究利用できるようにするための情報を整理することを行っています。
 このほか、博物館が札幌農学校に移管されてから、研究対象としての評価が低下していた開拓使時代の産業資料、絵画資料、人文系資料などを対象とした再調査を行い、歴史資料としての価値の復元を目指しています。また、所蔵標本・資料の収集に関与した研究者のフィールドノートや図書、写真類の収集・調査を行い、それらのアーカイブ化の検討を行っています。
 大学博物館の大きな役割の一つは、大学において行われた研究活動の証拠としての標本・資料を保存し、研究内容を常に再検討できるようにすることです。また、集積された標本・資料を次の世代の研究者が有効に利用することができるようにすることも、重要な役割です。このため、研究時に収集した動物などを標本として保存するための技術的な支援・指導も博物館部門の活動の一部となっています。

沿革

● 開拓使の博物館時代 ●
 博物館部門の歴史は、1877(明治10)年に設置された開拓使札幌仮博物場にはじまります。現在の植物園の敷地の北側にある偕楽園と呼ばれる地域に建てられた札幌仮博物場を拠点として、開拓使の設置目的である北海道の開拓、殖民に関する資料や物品が収集・展示されるとともに、当時開催されていた内国勧業博覧会や万国博覧会、開拓使の東京出張所にあった東京仮博物場に出品されていました。
 この時代に収集された資料として、開拓使が設置した工場で製造された缶詰見本、博覧会に出品された北海道産木材見本類、博覧会の賞状やメダル、開拓使が北海道独自の産業として位置づけていたアイヌ文化資料、展示用の絵画資料などがあります。


● 農商務省の博物館時代 ●
 仮博物場の建物が狭くなったため、開拓使は1882年に当時牧羊場であった現在の植物園の敷地内に新しい博物館を建設しました。これが現在も残る博物館本館です。この博物館が完成した年に開拓使が廃止されたため、博物館は農商務省博物局、現在の東京国立博物館によって管理されることになります。わずか2年の間ですが、東京と札幌の博物館の間では資料交換が行われていました。札幌からはアイヌ文化資料が、東京からは勧業政策に関する資料が送られ、現在もその一部が保存されています。


● 大学博物館として 札幌農学校の時代 ●
 札幌博物場は1884年に札幌農学校所属博物館になります。移管当時、札幌農学校には演武場(現在の札幌時計台)の中に標本室が設置されていましたが、ここに所蔵されていた標本・資料類と札幌博物場の所蔵資料とが統合され、大学博物館としての役割が強化されることになりました。札幌博物場は設置当初から開拓使の「陳列場」としての役割が重視されてきたため、展示物品の収集に力が注がれていました。移管以降は、大学博物館として標本・資料の陳列よりも教育・研究資源の収集や活用のための役割が重視されるようになりました。収集され続ける研究資源の保管場所として、博物場移管の翌年に収蔵庫が建設されました。これ以降、収集される標本も展示用の剥製よりも研究用の標本が多数を占めるようになります。
 この時代に収集された資料として、1887年に博物学担当教員小寺甲子二が利尻・礼文で収集した考古資料や、博物館担当教員であった村田庄次郎によって北海道内や当時の樺太で採集された鳥類標本などがあります。


● 資料収集の活性化 八田三郎・犬飼哲夫・名取武光の時代 ●
 20世紀を迎えるころ、博物館長に八田三郎が就任しました。八田は動物学者でしたが、著作「熊」の中でアイヌ民族のクマ送り儀礼の文化についても言及するなど、自身の研究と博物館に所蔵されている他の分野の資料とを総合的にとらえていました。八田の影響により、博物館では従来の動物学だけでなく、アイヌ文化や考古学の研究、資料収集が活性化することになります。八田自身による収集資料は多くはありませんが、八田のあとを継いだ犬飼哲夫、名取武光によって、現在の博物館部門所蔵資料の多くが研究活動に基づいて収集されました。また、八田、犬飼は資料を収集するだけでなく、写真や動画などの技術を積極的に利用して資料の周辺情報の記録を行っていました。撮影から1世紀を経て、これらの映像資料の価値はより高まっています。
 八田が館長であった時代に函館からブラキストン標本が移管されました。日本の鳥類学の基盤となった標本が散逸することを防ぎ、研究資源として保存するなど、八田の時代に行われた活動は現在の博物館にとって大きな影響を及ぼしています。


● 資料の保存と利用活性化の両立 ●
 犬飼・名取の時代以降、博物館には専任教員が配置されなかったこともあり、博物館独自の大規模資料収集は行われなくなりました。しかし、これまでに集積された研究資源は、博物館職員ではなく、北海道大学内外の研究者によって利用されています。そして、それらの研究者が収集した標本は研究の証拠として、また次世代の研究者のための資源として博物館に寄贈されるという好循環をもたらしています。博物館長を務めた阿部永の日本を代表する哺乳類標本コレクションの寄贈もその一例です。
 現在、博物館ではこれらの研究資源を適切に保存し、利用をより活性化させるための活動に力を入れています。2010年に建設された新収蔵庫に保管されている所蔵資料のデータベース化や、資料収集者のフィールドノートなどの周辺情報の収集、寄贈された動物死体の標本化にあたって剥製だけではなく遺伝子調査や食性調査を可能とする液浸標本の保存など、最新の研究活動に対応できる資料管理を目指しています。また、他博物館との交流を活かした研究利用者への情報提供、標本製作の支援など、北海道大学の研究活動の活性化と将来の研究資源の充実を目的とした活動も行っています。