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第21回:山口 淳二 理事・副学長

理学部・理学研究院の教授として

 こんにちは。理事・副学長の山口です。

 私の理事コラムは前回(2021年5月)に続いて2回目となります。私は理事就任前まで理学部・理学研究院の教授であり、現在もその職務が付加されております。そこで今回のコラムは、北大理学部・理学研究院教授に関連する二題です。

・私の履歴書

 私は、所属する学科の3年生(理学部生物科学科生物学専修私たちは普段「生物」と呼んでいます)に対して、「私の履歴書」という90分の授業を毎年行っていました。これは通常の生物の授業とは異なり、私の学部生・大学院生時代における特に研究上の様々な出来事と、それについての私なりの(独断的な)解釈に関するものでした。内容としては、生化学の勉強を頑張った学部生時代 → 研究に励んだ大学院生時代(ちょっと良い業績を挙げてうれしかったこと、でもそれ以降はなかなか進まない研究の悩み) → 日本学術振興会特別研究員と海外特別研究員(留学)の採択 → 助手 → 助教授(海外での共同研究) → 教授というお話です。基本は私の大学院生時代の話が中心で、これは学部後期の学生に対して、彼ら・彼女らがこれから過ごすであろう卒業研究や大学院生としての生活の具体例の一つを示したつもりです。また学生には、勉強や研究のことだけではなく、これからの自分のキャリアについて考えてもらうため、その契機を「私の履歴書」という形で示したいとの意図もありました。同時に、研究という世界は、不安定であるけれども、あえてチャレンジすることの大切さ、そして達成したときの喜びについての細やかなメッセージでもありました。

 この授業を受けた学生の感想はおおむね良好で、「今後の自分のイメージがすこし見えた気がした」等の感想が多く寄せられました。中でも秀逸だったのが、以下のコメントです。「確かに先生の話は面白く、リスクを冒してでも頑張ろうという気にさせてくれる。しかし、先生は所詮勝ち組だ。皆がそうなれる訳ではない。私はリスクのない職業を選びたいと思います(原文は残っていませんので、大体こんな意味ということで)。」

 ちなみに、「大学教員」は、「倒産しない中小企業のおやじ」(すみません、ここは男性名詞となっています)と私は定義しており、リスクの少ない結構魅力的な職種だと今でも思っています。このような感想もありましたが、この授業で私の研究室を希望し、研究者を目指した学生も何人かいたことも事実です。彼ら・彼女らに魅力的な職業だと思ってもらえるよう、今後も微力を尽くしたいと思います。

・坂村植物生理学

 前回のコラムで、私が名古屋大学から北大へ異動してきたことをお話ししました。北大への赴任が決まった際、名大のI教授(当時)から、「お前のこれから行くところは、坂村徹が在籍した由緒ある植物生理学の研究室だ。『坂村植物生理学』の教科書は古典的な名著だ。知らないだろう?(「私」知りません)ちゃんとその伝統を引継げるよう頑張りなさい。」と励まされました。I先生は、牧野富太郎(今度NHK朝ドラのモデルになる由)の孫弟子筋を自慢される方でした。

 私が理学部に赴任した際、生物学教室の事務方から、『北大理学部五十年史』(1980年刊)の書籍を手渡されました。そこには、理学部創成期、そして生物学教室の歴史が記されています。坂村徹博士は、本学の農学部教授でしたが、理学部設立時に教授として異動されました。後輩の木原均博士とともに進められた先生の有名な小麦染色体数の解明は大正7(1918)年になされています(ご存じのように、この業績を讃える記念碑が理学部6号館横に建てられています)。前述の『植物生理学』の刊行は昭和16(1941)年とのことで、その後日本学士院会員、文化功労者に選出されています。

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小麦研究記念碑の様子

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北区歴史と文化の八十八選にも登録されている

 今では理学部・理学研究院内に、『植物学科』や『植物生理学教室』という名称はどこにもありません。とはいえ、赴任直後、「私はどのように研究を、そして研究室を発展させ、伝統を受け継いでいくべきなのか」、と思いをめぐらせたことも事実です。

 丁度この原稿を作成中の昨日、I先生がご逝去された旨を知人より伝え聞きました。一つの研究室をめぐる様々な縁、そしてそこに関係する人々の心の在り様をここに書き留めた次第です。I先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

(2022年12月)