堀内壽郎(1901~1979)の生家は、札幌農学校にほど近い、札幌区北7条西4丁目5番地にあった。日露戦争の最中、堀内家は鎌倉に引っ越したが、緑あふれる札幌農学校の校庭は彼の原風景となった。
▼「その頃の札幌農学校を実に懐しく思い出します。農学校の構内から原始林の中を流れる小川に沿ってずっと植物園へ行けました。小川には原始林の樹が倒れて自然の橋をかけていました。その橋を渡りそこなって水に落ちると夏でも足がしびれる程冷たかったことを覚えています。」(『一科学者の成長』1972年、3~4頁)
東京市本郷区西片町で過ごした少年時代、堀内少年にとって、日常世界は経験のみによる探究では解明できない現象ばかりだった。
▼「まず不思議だったのは圧力のことです。…水いたずらで、コップに水をみたし、さかさまに引きあげると水はコップの底についてきます。この経験事実は、それまでの圧力ゼロなる自然観と対立したのです…こげた薪をみて、火と反対の働きをすると思っていた水に浸けたら、もとに戻るかと思って実験しましたが、もちろん戻りません。これも、もっていきどころのない私の不思議でした。」(前掲『一科学者の成長』4~6頁)
科学少年堀内壽郎は、第二高等学校を経て1922年には東京帝国大学理学部化学科に進学し、原子構造や化学反応の世界に魅了されていった。1932年5月、堀内は妻子を日本に残して単身ドイツへ渡り、物理化学研究の最前線に飛び込んだ。
▼「世界一流の天才児と毎日めしを食ひながら議論が出来た…あのグルウプの頭が如何に上等だったか…テラー[E. Teller]には世界中へこまされない学者はないんだからね。…[僕も]残念ながら凹んだ。向ふは実験しないで理論が商売だからしやうがないやい。」(1933年9月30日付悦子夫人宛て堀内壽郎書簡)
東京府立第一中学校受験の頃(1914年)
機械類が特に好きで、模型飛行機、蓄電池、蒸気機関など、遊び道具も自ら作製していた。
留学先のゲッティンゲン大学物理化学研究所では、当初、ドイツ語に悪戦苦闘したが、「困難と闘って進む不屈の闘志があれば、学問こそは最も面白い生き甲斐を感じさせる」(1973年2月14日付『祖国と学問のために』1面)との強い意志で乗り越えていった。
▼「こないだやってる実験とちがった装置を考へてオイケン[A. Eucken]に云ったらひどくこき下され…今に見ろと思ってやってる…学問に対する興味も勃然と起って来てる」(1932年6月26日付悦子夫人宛て堀内壽郎書簡)
次第に頭角を現してきた堀内壽郎は、物理化学者ポランニー(M. Polanyi)に請われて、1933年5月ベルリンのカイゼル・ヴィルヘルム研究所に移って重水素の基礎研究を行い、9月にはマンチェスター大学へと移った。
▼「水素を重水素でlabelして水素のあづかる反応のmechanismを片っぱしからあばこうという気がまえでありました。」(「反応論とともに三〇年」『触媒』第7巻記念号、1965年、26頁)
堀内壽郎は、ポランニーと共に、化合物の8~9割は水素化合物であること、重水素が発見されたことに着目して、水素に目印をつけて化学反応とその速度を追跡するという、画期的な方法論を打ち立てた。それを水素電極反応に適用して、白金触媒を用いて反応のメカニズムを実験で解明し、理論を展開した。堀内の粘り強い実験と不屈の議論に対して、ポランニーからは「あなたの戦闘力には感服の他ない」(1934年6月18日付悦子夫人宛て堀内壽郎書簡)と評された。
化学反応論研究に先鞭をつけた堀内壽郎は、1935年2月、「俺は札幌の土になるんだ」(『漕魂』1981年、73頁)と、北海道帝国大学理学部化学第一講座の第二代教授に着任した。
▼「研究施設は新らしければ新らしい程よい。東大の実験室などは古くなってどうにも仕様がない。新設なれば自分の思う通りに設計して新らしい研究が出来る。その点北海道は一番よいのだ。」(前掲『漕魂』103~104頁)
北大着任後、堀内壽郎は、水素電極反応の成果を足がかりに、触媒反応の理論化を追究した。
▼「[アンモニア合成には鉄の触媒が有効なように]触媒の厄介にならない化学工業は殆んど無いと云えます。しかしのぞみの反応を起させる鍵のような触媒を探がしあてるのは…大きな困難が伴います。」(ドイツ自然科学アカデミー会員証授与式記念講演「ドイツの科学と私の研究」1966年、13~15頁)
1940年5月、堀内壽郎は「化学反応速度論の理論及実験的研究」で帝国学士院賞恩賜賞を受賞した。その功績は、1943年1月、北海道帝国大学に、世界初の触媒研究所の設立をもたらした。
大学文書館 山本美穂子
Yamamoto Mihoko

帝国学士院賞恩賜賞授賞式(1940年5月14日)
堀内壽郎は、湯川秀樹、能勢朝次と共に帝国学士院賞恩賜賞を受賞した。その後、1966年、堀内壽郎は、長い歴史をもつ学術アカデミーである「ドイツ自然科学アカデミー」の会員にも選ばれた。北大関係者で両栄誉を受けたのは堀内壽郎のみである。(写真・書簡はすべて堀内浩太郎氏提供)