ヒグマはなぜ街に下りてくるのか?

<写真> 知床半島ルシャ地区のヒグマ 撮影:白根ゆり

「近年、市街地で目撃されるヒグマの数が増加し、人との軋轢も生じています」と話すのは、北海道大学獣医学研究院准教授の下鶴倫人さん。事実、ある調査では、ここ30年間、北海道のヒグマの数が増加傾向にあることが示されています。下鶴さんをはじめ、北海道大学の研究者が、ヒグマの増加原因やその社会的影響について調べてきた結果、興味深いことがわかってきました。

下鶴さんらは、北海道の知床でヒグマの調査を長年行っています。「世界遺産であり国立公園でもある知床は、世界でも屈指のヒグマの生息密度を誇ります。私たちは知床のルシャ地区で10年以上に渡りヒグマの調査を行ってきました。ルシャ地区はヒグマを高頻度で直接、かつ安全に観察できる世界でも珍しい場所です」と下鶴さんは言います。

世界遺産であり自然保護区でもある知床は、世界でも屈指のヒグマの生息密度を誇る世界遺産であり自然保護区でもある知床は、世界でも屈指のヒグマの生息密度を誇る

下鶴さんらの研究グループは、ヒグマの糞を分析し、彼らが何を食べているのかを調査してきました。その結果、ヒグマの食料は季節によって変動していることがわかりました。春と初夏は主に草を食べ、夏はアリやハイマツの実、秋は鮭やドングリといった具合です。冬は冬眠しているので食べません。「ヒグマが知床半島の人里に大量出没した2012年と2015年は、糞の中にハイマツと鮭が非常に少なく、これらの年は夏期に栄養状態が悪化していたことがわかりました。実際、これらの年では極度に痩せたヒグマが観察されていました。ハイマツや鮭の不作で餌に困ったヒグマが、低地帯を中心に活動し、その一部は人里に降りてくるものと思われます」と下鶴さん。温暖化の影響で高地のハイマツは減少すると考えられるため、同じことは知床以外でも起こり得ると言います。

糞の解析から明らかになったヒグマの食餌の季節変動糞の解析から明らかになったヒグマの食餌の季節変動

ヒグマを調査しているのは研究者だけではありません。北海道大学には北大ヒグマ研究グループ(通称クマ研)という学生サークルがあります。50年以上の歴史を誇り、多くのクマ研究者を輩出してきました。クマ研の伊藤泰幹さん(文学院修士課程1年)は、大学の天塩研究林や大雪山系を中心にヒグマの調査を長年行ってきました。天塩研究林では決まったルートを定期的に踏査し、ヒグマの痕跡調査、行動記録調査、食物の資源量調査などを行っています。伊藤さんは、「クマ研は現在でもフィールドに出てヒグマの痕跡を追うフィールド第一主義です」と語ります。そんな長年の地道で泥臭い調査はいくつかの重要な発見につながりました。

知床国立公園ルシャ地区の風景(左)とヒグマ(右) 撮影:山中正実知床国立公園ルシャ地区の風景(左)とヒグマ(右) 撮影:山中正実

クマ研の調査結果を論文にまとめたのは、富田幹次さん(環境科学院博士課程3年)を中心とするグループ。彼らは、ヒグマの駆除政策と頭数の長期変動との関係を調べてきました。「北海道には1990年までヒグマを駆除する『春グマ駆除制度』があり、事実上、絶滅政策と言って良いものでした。その後は、動物保護の観点などからこの制度は廃止され、ヒグマの頭数は回復してきたと思われます」。彼らは、天塩研究林での過去40年間の記録日誌をデータベース化し、地理情報を加え、地域を網目状に細かく分けて解析を行いました。その結果、駆除制度が廃止された1990年を境に、クマの頭数はV字カーブを描いて回復していることがわかりました。「個体数が急速に回復したのは、連続する森からのクマの移動があったからだと思われます」と富田さんは話します。

富田さんは、別の共同研究者ともう一つ興味深い発見をしました。それはヒグマがセミを食べるという新事実です。「カラマツの人工林ではヒグマがセミを食べていることがわかりました。セミの幼虫がたくさん羽化する人工林という環境に応答して食餌行動を変えたと思われます。気候変動や鹿の増加によって草が減少している地域では、ヒグマは同じように食べる物を調節している可能性があります」。

ルシャ地区を流れる川で鮭を獲るヒグマ 撮影:中西将尚ルシャ地区を流れる川で鮭を獲るヒグマ 撮影:中西将尚

北大の研究者や学生によるこれらの調査結果は、ヒグマの生態、山の植生、餌資源、気候変動が密接に関連していることを示しています。「人里への出没は、食物資源量が減少する夏と食欲が亢進する冬眠前の秋に多く、これらの時期の餌不足が原因と思われます」と、北海道大学獣医学研究院教授の坪田敏男さんは言います。特に母離れしたばかりの子グマは、オス同士の闘争を避けたり、人の怖さを知らないために人里や街に下りてくることが多いそうです。坪田さんは、「今後もヒグマの増加と人里への出没は増えると予想されますが、現在のヒグマ管理計画は絵に描いた餅になってしまっています。人との軋轢を減らすためには、現場で活躍する専門対策員を雇用するなど、管理計画を実行性のあるものにし、さらに、一般の方にもヒグマの生態や対応方法などを良く理解してもらい、地域に応じた対策を立てることが必要です」と、ヒグマと向き合うことの重要性を語りました。

2021年10月21日の記者会見にて左から坪田敏男教授(獣医学研究院)、富田幹次さん(環境科学院博士課程3年)、吉見宏理事・副学長、伊藤泰幹さん(文学院修士課程1年)、下鶴倫人准教授(獣医学研究院)。2021年10月21日の記者会見にて(撮影:広報課 広報・渉外担当 江澤 海)

(国際連携機構/広報室 南波直樹)
本記事の原文は英文です。